05.10.09 MM第115号
【歩いた日】 2005年 9月18日(日)
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【感想 等】 伊勢湾フェリーを使っても、熊野まで静岡から車で700km。少し遠い。 しかし、京都からの徒歩と比べればはるかに近い。 「なぜ、平安時代に京都から1カ月もかけ歩いて険路を熊野まで詣でたのか。」 他にも、もっと高い山や険しい所もあるだろうに・・・。 南アルプスは日本の屋根で、交通・文明が発達した今でもアプローチは楽ではない。 なぜ、人々は天にいる神々に最も近い3000mの山々が連なる南アルプスをめざさなかったのだろうか。 なぜ、苦行になるであろう東北や北海道の山々をめざさなかったのだろうか。 それは、四国でも中国地方でも九州でも良かったのではないか。 それが、私の一番の疑問であった。 熊野は南側の太平洋を暖流が流れている影響もあり、暖かい。雪は1年に1回くらいしか降らない。 しかも高い山がないので雪に覆われた山の美しさや厳しさもない。 それなのになぜ・・・・。 私はそんな疑問を胸に牛馬童子口から6時半過ぎ歩き始めた。 10分ほど山道を登るとすぐに箸折峠の「牛馬童子像」に着いた。下の写真のように僧侶が牛と馬にまたがっている。花山法皇の熊野詣での旅姿だそうだ。そこから近露の里を見ながら石畳を「近露王子」に向かった。そこには7時前に着いた。王子の中では早くからあり準五体王子にも選ばれていたという。大きな石碑があり今も跡地が大事にされている。 車で中辺路に来るまでの国道で、「熊野古道○○まで○km」という標識を何回も見かけた。峠や王子まで車で行ってもそこには石碑があるだけだ。昔を偲びながら古道を歩くことに価値がある。 近露から普通の舗装道を何回も歩いた。あるところは車の通らない国道旧311号線だったり、山にある民家へ行く細い舗装道だったりした。そんな民家の中には私が子供時代に住んでいた板塀、木枠の網戸に煙突がついた家もあった。また薪割りをしているおじいさんもいた。時代をタイムスリップしたような気持ちになった。時がゆっくりと流れているような気もした。 7時半比曾原王子、7時45分には継桜王子に着いた。継桜王子は野中地区の氏神の王子社で、道路から上がった石段の上にある。ここには日本の名水100選にも選ばれた「野中の清水」があり、「野中の一方杉」がある。 8時過ぎ、山の中の車道から少し上がったところの中ノ河王子に着いた。といっても石碑1つがあるだけである。かつてはそこを古道が通っていたそうだ。 8時半、小広峠の隅に石碑のある「小広王子」に着いた。ここから本格的な古道に入る。少し下ってから登ると標高592mの「わらじ峠」だ。薄暗い山道は「ヒル降り峠」と言われていたそうだが、今はいない感じだ。NO113で書いた山梨県の篠井山を思い出していた。そこから女坂を下り男坂を上ると岩神峠で、そこの少し上に「岩神王子」がある。標高655mあり、このコースの中では最も高いが展望はなく、木々を見ながら楽しく歩いた。近露過ぎから何グループかを追い抜かして来た。本宮から近露に向かって歩く人は少しだ。 少し休んでから、「湯川王子」に下っていく。途中、「おぎん地蔵」や「蛇形地蔵」がある。おぎん地蔵は京の芸妓おぎんが熊野に住む許婚のもとに向かう途中山賊に殺されたのを哀れんで作ったというような説明が付いていた。それぞれの王子社も解説板があり、歴史を知ることができる。また、所々に便所や非常用電話がある。さすが世界遺産だ。蛇形地蔵では外国人のグループにもあった。 湯川王子には10時過ぎに着いた。小さな社が建っている。皇太子殿下が訪れたという記念碑もあった。そこから150m登ると三越峠だ。舗装道に出合い、休息所もある。中で2グループが休んでいた。朝出発してから4時間が経った。私も休息所内にある説明板を見ながら栄養の補給をした。 ここから「猪鼻王子」までは300mを下る。山道になれているので、気持ちよく下っていき、11時40分に着いた。と言っても、杉林の中に石碑1つがあるだけである。12時少し前、「発心門王子」に着いた(下の右上の写真)。この門からが本宮だそうで、昔はお払いをしてから敷地内に入ったそうだ。 そこには黄色のバスが止まり、マイクを持ったガイドが10人ほどの中年女性を集め一所懸命に説明をしていた。小さな社はあるが、たいして立派でもないし、なぜ観光客がいるのか、初めはさっぱりわからなかった。それが、歩いていくと、少しずつわかってきた。 水呑王子に12時20分に着いた。そこには廃校になった小学校だろうか建物があり、そこの広い屋根の下には60人くらいの人が弁当を広げていた。団体やグループが多かった。少し休憩してガイドブックを見ると、発心門王子から本宮までが観光コースになっているのだ。しかも、『熊野本宮語り部の会』が発足したばかりでPRを兼ねて安価でガイドをしていた。観光客の人混みに長居はしたくないので出発した。 午後1時前、「伏拝王子」に着いた。ここから本宮を遠望し伏して拝んだとので伏拝王子だそうだ(下の写真)。かつては今の大斎原に本宮がありここから見えたという。山の間にある川の中州のこんもりした所が大斎原だろう。ここの茶屋で残っていた昼食を取りながら茶屋の人とお話する。彼女も語り部の1人だという。ほんとによく勉強され、語り部達は熊野の歴史を知っている。 石畳を語り部の話を聞きながら歩いている親子も見かけた(写真)。そんな活用方法もあるだろう。午後2時、抜所王子に着いた。本宮の裏手にあり、ここで旅の汚れを払い本宮に入ったという。私も、近露からここまでの25kmの無事を感謝し、本宮に入った。 本宮は木の地のままで落ち着いてたたずんでいた。熊野の神々の使者であり、Jリーグのシンボルのヤタガラスもあった。この熊野本宮大社は他の熊野三山の熊野速玉大社、熊野那智大社の華やかさとは違い、落ち着いている感じだ。まだ、それほど観光化されていないのもいい。 「なぜ、平安時代に京都から1カ月もかけ歩いて険路を熊野まで詣でたのか。」 私なりの解は、当時の人達は南方に極楽浄土があると信じていた。それで、京都から南の熊野に向かったのだ。なぜもっと南にある串本や潮岬に神社を作らなかったかは、私にはわからない。しかし、熊野よりもっと南の補陀落(「ふだらく」と読み、想像上の場所)へ僧侶が小舟で向かったという。その船の四方には鳥居を付け、食料を積み、出口を塞いでの船出だったという。 その後、大斎原の日本一巨大な鳥居(写真)を見て、湯の峰温泉に向かった。この温泉は日本最古の温泉と言われているので、是非入りたいと思っていた。しかし、壺湯は小さく貸し切り順番制なので残念ながらあきらめ、隣の公衆浴場に入った。無色透明に近い硫黄泉で、疲れが取れた気がした。 |
山中の「牛馬童子像」と「役行者像」 | 発心門王子、ここから本宮、お払いをしてから敷地内へ |
「伏拝王子」から本宮を遠望し伏して拝んだと言う | 発心門からの3時間、語り部から話を聞く親子 |
熊野本宮大社 | 大斎原の日本一巨大な鳥居 |